Category: コラム

「スーパー30 アーナンド先生の教室」

前述の数学立国のコラムの続きである。

『アーナンド先生の教室』

インド映画で実話をもとにして作られた映画がある。主人公は数学の天才でありながら貧しさからケンブリッジ大学に留学許可が出ているにも拘わらず行けなかった。後に極貧家庭の子ども30人を選抜し無償で教える私塾を設立した。生活の全ての現象、目に見えるもの、感じるもの、全て数学的に考え答えを出すという主旨だ。その考え方、視点をアーナンド先生は生徒たちに教えるのである。入試問題の解説とかかなり違っている。そして、ITT(インド工科大)という世界でもBest200に入る大学に30人全員合格させたのである。

アーナンド先生の教育プログラムは今でも活かされている。ご本人もご存命だ。アーナンド先生のように貧困に向き合い諦めない姿勢と、食事を提供し、無償で教えたこの実話は誰のためだったのだろうか。国の将来を考え数学で立国するという情熱から生まれたものだ。合格した30人が社会でどのような生き方をしているのか続編を期待したい所である。

数学嫌いの小生でもアーナンド先生の説明がなんとなく理解できそうな所も不思議さ感じた。

学生必見の映画の1つである。

数学で科学立国を取り戻す

アフター・コロナでは様々な分野で改革が行われ、デジタル化の遅れを感じる企業も多かったと思われえる。制限・制約の中から生み出されるものもあった。

日本は25年で少子高齢化を向かえた。たった25年である。誰も25年後こうなることを予測できなかったのか。ある作家の先生は「数学を知るべし」と政治に訴えた。数学的思考が重要であるという。企業経営者は好きでも嫌いでも常に数字を意識し向上させるための未来予測をしている。3か月後の四半期、半年後、1年度の決算。先読みが必要であるため数学的思考は重要な要素である。

一つの考え方として、『フェルミ推定』がある。実際に調査することが難しいような捉えどころのない量を、いくつかの手掛かりを元に論理的に推論し、短時間で概算することである。

例えば、日本にコンビニがいくつあるか?

都内では1分に1回のペースで会計がなされ、田舎では10分に1回のペースで会計がされると仮設を立て、24時間を分に直し、1440分÷1分=1440人。1440÷10分=144人。1店舗の平均は(1440+144)÷2=792という風に概算を求めていくと、日本のコンビニ店舗数は76000と近似値が出る。

この数学的な考え方で先を見据え、将来につなげていくというのである。単に数学を学問の領域で終了せず、今に生かせる考え方は大切であり企業人には重要な位置づけである。

小生は数学が嫌いであるが、『フェルミ推定』は面白い理論と感じる次第である。

時代を生きる

昭和のギャグを生徒の前で平気で披露している。教室内はいつもシーンとしているが、ギャグを重ねていく中で笑う生徒が増えてきた。古い古いといいながらも聞いたことがないダジャレやギャグは幾分新鮮に感じられるのではないだろうか。そんな中で、すぐに理解しリアクションしてくる生徒がいる。その生徒は頭の回転が早い。

そこで、年齢の言っている人に「今がいいか?」あるいは「昭和のような昔がいいか?」聞いてみたい。皆さんはどちらと答えるだろう?答えの中心となる基準はなんだろう?食べ物、文化、教育。題材は様々だが何を基準に選ぶだろうか?

『時代を生きる』という事は、その時代時代に楽しい事を想像し、苦しい時代に戻りたくないと思うのが自然である。5年前に改訂された文科省の指導要領では『生きる』の育成がテーマの一つである。能力や態度を育成するという狙いはいいが、実践した結果を評価・検討し、どれだけの若者が社会に適合し職場で楽しく生きがいを感じているか調べて欲しい。上手く生きることができず「生きづらさ」を感じてる若者は少なくない。

「体が丈夫で健康あれば何とかなる。」と昔はよく言われたものだ。それは今も変わっていない。頭が良くても体が弱ければ外で働けない。PCの前でIT系といいながら何かを動かしている。対面での行動や会話の楽しさは、コロナ禍で十分感じたはずだ。

自由を獲得するには多少のお金が必要だ。労働を対価に変えて自立していかないと実現できない。自由の捉え方は難しい。心が解放されていく現象も自由ではないだろうか。本当の自由とは、何かを意味するのか。今後も考え続けていきたい。老いの戯言?だろうか。

感謝

映画を良く見る。

最近、面白いような、変なような、分かりにくい映画を見た。

2023年度アカデミー賞、作品賞他7部門受賞した『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』だ。カタカナ表記だと尚更分かりにくい。

『Everything Everywhere All At Once』何事も全て一度だけ、みたいな訳かな?

頭の中で展開される悩みの戦い。

家族や知人・友人や生活に関わりのある人が、いきなり豹変するので説明しにくいが、展開される映像の中身は全て主人公の頭の中を表現している。全ての物事を否定し規制や縛りに束縛されないメッセージ性の強いものが伺える。最後には”愛”が解決の道へと示していく。

各々の立場や考え方、趣味・稽好があるがゆえに人間関係が上手くいかない。真に現代社会で生きることとは、絶対的な答えは存在しないとされている。価値のある世界で生きるということは何に繋がっていくのか。哲学者にでも聞いてみたいものだ。

楽しく価値のあるものは、受け身ではなく自ら行動するときに訪れるのではないだろうか。

頭の中で解決しようとすると戦いが始まる。

『今』あることに感謝の気持ちが湧いてくると、なぜか上手くいくことが多い。年齢にもよると思う。先が見えてきた年齢になると思いを巡らせることが色々出てくる。その中で出会った人には感謝していきたい。出会ったその時々で一緒の空間や時間を過ごせることは本当に有難いことだ。

映画のススメ

めっきり映画を見る機会が無くなった。

インド映画はキレきれのダンスが華やかさを増し見ている人を魅了する。最近では3時間を超す大作が上映された。

韓国映画は国内の問題を背景に作られた思われる『パーフェクト・ドライバー』。主演は『パラサイト半地下家族』で長女役のパク・ソダム。100%の成功率でなんでも配達するというストーリー。映画のメッセージ性は明確である。2月コラムで触れたブータンの映画もそうであった。日本でも背景の映像美が高く評価された『君の名は』がそうである。

制作者、原作者の意図を映像という形で表現する。見る側は大画面で複数の観客と感動を共有する。TV画面やタブレット画面ではなく、映画館の大画面で観る。この大画面での感動を共有する経験が大切なのである。

不登校生はこの感動するという経験が少ない。さらに生活体験も少ない。だから心の栄養が不足する。外的環境へ適合する時のエネルギーが足りていないのである。感動はそのエネルギーを生成する一部である。

小説と違い感動の共有が、同じ場所・同じ時間・同じ空間で出来るのだ。この環境が大切である。

だから映画を見ることも視野に入れて余暇を過ごしたい。

現代版「映画のススメ」である。

諭吉さんは私の主張をどのようにとらえるのか。考えるとタイムスリップしたくなる。過去の偉人たちは偉業をなして名を遺した。偉人に学ぶことは後世につなげたい。

そう考えるのは私だけでしょうか。

生涯勉強

私は還暦を過ぎているが、必要があって高等学校の商業科免許を取得中で猛勉強中である。

学生時代と違い、覚える、記憶するなどで、年齢を感じさせられる場面が多くなった。

元々の勉強不足もあるが、視力や集中力、特に文字が読みにくくなっている。

昔の人が「若いときには勉強しておくのだよと」よく耳にした。人間的な意味合いで捉えていたが、知識・技術面で直接的な学問に直結しているとは捉えていなかった。

教育を受ける側より教える側の方が重要で大変だ。教える先生は、授業準備、実施後の振り返り評価・改善、生徒の記録など膨大な作業がある。

先生を題材にしたドラマや映画はたくさんある。昔も青春学園ドラマが全盛期の時代があった。何を隠そう私もそのドラマを見て先生を目指した一人である。同級生も先生が多い。なぜだろう?

神戸在住の親友は英語の教師である。関西人だがあまり関西弁を話さない。むしろ標準語が普通である。私などは田舎者を隠すために人と話すことを避けていた時期があった。他の関西人はどこでも関西弁で話す。なぜ関西人はいつでもどこでも関西弁を話すのか不思議である。都が関西にあったからなのだろうか?「なんでやねん!」とツッコミを入れたいところである。

親思う心に勝る親心

学生時代、九州の友人に結婚式の司会を頼まれたことがあった。

離陸して間もなく、酔っぱらったおじさんが、CAさんに絡んでいる。近くにいた紳士が、酔っぱらっいのおじさんに注意し止めに入った。おじさんは大声で「表に出ろ!!」と怒鳴った。周囲の乗客はどっと大爆笑。ちょっと前の「どうなるんだろう・・・」という悲壮感から爆笑の渦。何事もなく一件落着。

ところが、式場に着くと、あの酔っぱらっいのおじさんがいたのだ。

何者だ? 

その正体は新郎の父親だった。

式が始まっても、テーブルに一升瓶をかざし、そのおじさんは酔っぱらったまま。私はその式の司会者だ。この先どうなるのか、飛行機の中のようにはいかない。打ち合わせ通り進めていくとさらに驚きが。飛行機の中で注意していた紳士は、新婦側の主賓で、勤務先の社長さんだった。つい司会を忘れ、「さっきはどうも」と挨拶してしまった。会場の方々は何のことだろうと不思議に思ったことだろう。社長さんは半笑いを浮かべ祝辞を始めた。酔っぱらたおじさんが新郎の父親であったことを知っていたかのように、落ち着いて時折冗談を交えて饒舌に話を終えた。ホット一息。

最後は新郎の父親の挨拶。

酔っぱらいのおじさん、大丈夫かなと思いつつも挨拶が始まると「トンビが鷹を生みました」の一言。会場がシーンとする中、その背景を友人の新郎が話し始めた。友人は養子に行くそうだ。

簡単に言えば「子を思う親の気持ち」だったのだ。

私も親になり、やっとあの時のおじさんの気持ちが分かる歳になった。

「幸せ」とは?

世の中には、説明しにくい言葉が結構存在する。

「幸せ(しあわせ)」がそうだ。

何を持って「幸せ」なのか。歌やドラマでも「幸せ」をテーマにしたものも多い。にもかかわらず、人に「幸せって何にですか?」と聞かれると答えにくい。

2019年に作られた『ブータン山の教室』という映画では、幸せとは何だろう?と視聴者が自然に感じてしまうものがる。特に幸せを解説めいたシーンがあるわけではない。押しつけがましいものがないのも不思議だ。

映画に出てくる村は、富士山よりも高い標高4000m以上の山の上にある。その村に歌手志望の青年教師が都会から赴任して、子どもたちと交流する。これだけなら普通の映画だ。大自然の中で生きる村人たち。子どもたちは勉強したくても、場所も、文具品もなく、先生もいない。黒板は壁、ノートはくしゃくしゃの紙。それでも子どもたちは、生き生きと勉強し先生を慕う。特別な場面もなく特別な意味を持つ描写もない。決して裕福ではないが、それを誰も気に留めず生き生きとしている。映画の最後に、青年教師がオーストラリアのバーで歌を歌う。流行りの歌だ。しかし誰も聞いていない。青年教師はギターを置き、歌うの止めた。お客は話を止め青年教師に注目する。そこで青年は歌い始めた。ブータンの山の上で教えてもらった歌だ。その歌はブータンを守るようにそびえたった山々に捧げる歌だったのだ。映画はそのシーンで終わる。

ブータン幸福度世界一といわれる国である。私が感じる「幸せ」をここに載せるより、この映画を見て感じてもらえれば幸いだ。

この映画の中で、私は教師になった理由が描かれていたのは驚きだった。

名づけ

『名は体を表す』

名前は名づけ親の願いが込められている。昨年の赤ちゃん名前ランキング1位は、男の子が、蒼:あおい・そう・そら。女の子が、陽葵:ひまり・はるき・ひなた・ひな・ひより。色々な意味があると思う。名前を付ける所から親子関係が始まる。

平和な風通しの良い親子関係ならいいが、上手く行かないと子どもは居場所がないと感じてしまう。平和な家庭が帰りたい家なら、帰りたくない家に変わってしまう。

みんなそれぞれがの立場で頑張っているから、悪い人などいない。ただ無意識で行動してしまう所に問題が起きる。親が子どもを思いつい過保護や過干渉に走ってしまう。悪気でやっているわけではない。無意識なのだ。そんな時、子どもの名前を思い出して欲しい。そこには「願い」があったはず。願い通りにならない時もある。子どもを理解するのではなく、子どもを分かってあげることだ。子どもの「今」を受け入れ「分かった」と、子どもを安心させることだ。好きな食べ物・嫌いな食べ物・癖・嫌なこと・好きなことなど。親だから分かることから始める。

私が教員を目指したのは、子どもの将来に触れ、生徒の将来に関わることが出来るからだ。

私たちは不安な生徒には『自分を信じて』と励ます。「自分を信じること」から「生きること」につながる。自立は自分で考えて前進できる環境を作ることから始まる。

コナコーヒー

人にが稽好がある。

私はコナコーヒーが好きである。ブルーマウンテンキリマンジャロと並ぶ三大珈琲の一つだ。価格も高く気軽に購入したがたい逸品だ。収穫量も少なく、生産地がハワイということもある。肥沃な土壌と昼夜の寒暖差の気候が栽培の好条件である。山地の標高も250m~800mとそう高くない。

コナコーヒーは後味がスッキリで苦みが程よく何杯でも飲めそな味がする。個人の感想だが他のコーヒーの味と比べると分かると思う。その違いを意識して生産することは大変なことである。ハワイに行ってコナコーヒーの生産者に何を基準に生産されているか聞いてみたい。ハワイは日本人が開拓した土地だ。だから、特別だ。口にすれば答えが分かる。

気候条件に左右される栽培法は昔ながらであるが、人が物を購入する時は必ず理由がある。私は現地で出会ったとき、特別感があったわけではなく、飲んで単純に「美味しい」と感じたことが決め手だ。その味に出会うとすぐにハワイを思い浮かべる。不思議なつながりである。コナコーヒーの一杯が至福を感じる瞬間だ。

まさに昭和世代の名残の一つかもしれない。